海外インターンシップ、海外インターンコミュニティはタイガーモブ

TOP/海外インターン体験談(タイモブログ)を読む/日本の体験談:【タイモブをのぞく】人生において重要なのは 『絶対に勝つ』こと。顧問 小寺圭

【タイモブをのぞく】人生において重要なのは 『絶対に勝つ』こと。顧問 小寺圭

びしん@タイモブ
  • 2017/02/27 09:29
  • 日本
  • 企画・マーケティング
  • インターン中

今回が、いよいよ最後のタイモブ社内インタビューとなります!最後はこの方、

タイガーモブの顧問を務める小寺圭さんにインタビューを行います!(第5弾木下杏奈編はこちら!

 

今回も、高校生インターンとしてタイモブに1月からジョインした中川原びしんがインタビューを

務めさせて頂きます。宜しくお願いします!

 

 

 

〈経歴〉

本名:小寺 圭

出身:東京都 世田谷区

兄弟:兄と姉を持つ末っ子

 

〈基礎プロフィール〉

東京外国語大学卒。

ゼネラルモーターズ・ディストリビューション・コーポレーションを経て、

昭和51年にソニー株式会社入社。同社海外営業本部中近東アフリカ部長、ソニー・アジア・マーケティング・

カンパニー(シンガポール)社長、ソニー株式会社海外営業本部長、ソニー・ヨーロッパ・コンシューマー・

マーケティング・グループプレジデント、ソニーマーケティング株式会社社長、ソニー・チャイナ・インク会長

、日本トイザらスCEO、クォンタムリープ エグゼクティブアドバイザーを経験。現在はチェンジ株式会社監査役

、フィリピンでの生姜生産、留学生支援機構理事、その他様々な企業の顧問として企業の発展をサポートしている。

 

ここからは、小寺さんの学生時代から現在に至るまでを体験談とともにインタビューしていきたいと思います!

 

 

 

人間の原点を知る4ヶ月の無銭旅行

 

vLwyThcJkCWM_ytcrKQ5BuNt45hxPTU9-3kxFy4dm6w0NkG-XyWhaAcTEBHEmS00m4Kevz2B_ebTCPsLnSNxfPIFEoP4iTmeZJk_KxRlRTqHwJ6uqIikkJhxiKDcY7J5IPQkIQ1x

無銭旅行をしていたときの写真

 

 

ーーどんな学生時代を送られたんですか?

 

私の家庭は母子家庭だったため、今では補助金が出ることがふつうだけど、

戦後間もない頃はそんなものないから母親の苦労というものは並大抵なものではなかったなと思います。

 

私は末っ子だったから親の期待みたいなものは感じずにのびのびと生きていました。

のびのびとっていうのはどういう意味かというと全く勉強なんてやってこなかったということです。(笑)

なので、小中学生では勉強した記憶がないですね。

入った高校も都立の中でもかなり低いところだったので周りも半数以上が就職するような高校でした。

 

けど、高校2年の時にふとこのままじゃ大学いけないなと思い始めたんです。

理由は、兄に「お前なんか蕎麦屋とかで働けば儲かるぞ」と言われて、俺蕎麦屋で働くのかと考えてみると、

そんな人生面白くないなって思って。

 

なら、とりあえず大学くらい行ってみて、それからこれからの人生を考えればいいや思ったんです。

 

なので、真剣に勉強し始めたのは高校2年の時くらいでそれまでは勉強した記憶もないです。

 

そして、いざ勉強をやってみると結構面白くて成績もどんどん上がるし

順位も目に見える形で結果になることが楽しかった。

 

そこで、志望校を決めようってなった時に家が貧乏だったから私立大学とかいけないんです。

 

でも一応、東大を目指すことにしました。

 

そして、そもそも大学も行けるかわからない人が東大行くなんて言うから

周りからの反応は冷たかったですけど、それで余計燃えて頑張ったんです。

 

そしたら、最終的には早稲田大学に合格することができたんです。

でもお金がないから入学できなくて、しょうがないから一年浪人して次の年も東大を受けたんです。

結局また東大には不合格で、最終的には5歳上の兄と同じ東京外国語大学に入りました。

 

当時の日本というと日本はまだ貧しい国であって、外貨の規制などがあり海外に出ることすら容易じゃなかった。

でも、先輩で無銭旅行とかをやっている人がいたこともあり、僕はとにかく外国に出てみたかったので、

それを自分でもやってみようとインド・パキスタン・アフガニスタンを横断する無銭旅行に行くことを決めたんです。

 

 

 

J6FGvaD_DiHfPbq662AmVGObLpU9Nk6FIEjL_4Z5VyFwkmehyySWR-w3w-FM0G_FUxHQycjMEWnR_Na-__U39lkYGDQlm-uYm-0N7OaUdpFr-1gmsZgkMKivPsgB9vSCh1LqKPKR

身につけていたものを全て売って購入したシタールの写真@インド

 

 

ーーなぜ旅行先にインド周辺を選んだんですか?

 

ひとつは、大学でヒンディー語というのをやってたからです。

 

もうひとつは、末っ子だからある意味甘やかされて生きてきたから、自分で物事を決めて進むということを

実は大学入るまであんまりやってこなかったんです。

 

性格的にも内向的だったので、これは何処かのタイミングで自分を変えなきゃいけないなと感じてたんです。

 

そこで、変えるためには否応無しに自分で毎日何をして行動するかを決めなきゃいけない環境に身を置くことが

ベストだと思い、一人旅にでるという選択をしました。

 

それにしては、行った国が極端すぎてハードルが高かったんだけどね。(笑)

 

でも、旅にでるって言ってもほんとにお金がなかったから、アルバイトもしたけれど今のように短期間で

たくさんのお金を稼げるわけではないので、自分のバイトで稼いだお金と母親の知人にお金を借りました。

 

けど、それでもまだ足りないから、無料で貨物船に乗っけてくれる貨物船会社を見つけて

途中まで無料で乗っけてもらったんです。

 

そのくらいお金がなかったので、旅に出た時は現金100ドルしか持ってなくて、それだけで4ヶ月過ごしたんです。

 

そうするとね、望むとも望まぬともがサバイバルゲームが始まっていくんです。(笑)

 

 

 

ーー当時のインドの印象

 

今でさえバックパッカーとかというのが主流だけれども、そういったものが出てくるのは、

僕が海外に行き始めてからもう少し後の話なんです。

 

なので、まだ当時は、インドなどもひらけた場ではないから僕みたいに他の国から

来るっていうのが珍しい時代でした。

 

そうすると、当然どこにいっても外国人がウロウロしているのが珍しがられました。

でも、逆にそれが吉と出たエピソードもありました。

 

旅では、とにかくお金を使わないということが重要なポイントで、毎日食べて寝るということが

いかに大切かということを身をもって痛感しました。

 

食べるにも寝るにもお金がかかる上に、僕は移動もしなきゃいけなかったので、それにもお金がかかるんです。

 

 

そこで、まず最初に学んだことは、無賃乗車すること。

 

 

これは、始めて列車に乗って移動をした時の話なんですが、

最初は何もわからないからしっかりと切符買って、一番安い三等に乗ったんです。

 

もちろん、三等なのでかなり汚くて床に寝なきゃいけないんだけど、

それでも、定期的に車掌が切符を確認しに来るんです。

 

私は、切符を持っているので、車掌に提示したんだけど、よく周りを見てみるとびっくりすることに、

誰も切符なんか買ってなくて切符を提示する代わりに、袖の下として1ルピーを渡すんだよ。

 

 

それを見たぼくは、そこで初めて気づくんですよ、「これでいいんだ!」って。

 

 

それからは一切切符なんて買いませんでした。袖の下を渡す方が安いからね。

 

よしこれで移動にお金はかからないとなったので、次は、食べるものと寝るところで

かかるお金をどうにかしたかったんです。

 

でも、特に目的地があるわけでもないから、日本人がそうやって電車に乗っているとみんな珍しがって

どこいくの?と質問してきても特に行くところも決めてないし今晩どこに泊まるとかも決めてない」っていうと。

 

 

必ず「じゃ、俺の家泊まらないか」となるんです(笑)

 

 

そうなったら、しめたな!と思ってどこかわからない駅で降りてついて行くことになるんです。 

 

 

ある時は、軍人さんの偉い人が家に泊めてくれたこともありました。

でも、そういうのは珍しくて大概はすごい汚い家でしたね。

 

でも、だいたい電気があるのは駅の周りだけで他のところは電気が通ってないんです。

 

なので、駅を降りる時が夜だと真っ暗なところ歩いて行くことになるんだけど、

歩く途中でそこらへんに寝ている人たちを踏んづけるんです。

 

ろうそく片手にそんな道を歩きながら、どんな形かも分からない家にお邪魔して、テーブルの上にろうそくを

のせて、出してくれた食べ物を食べるんだけどそれも暗くて何食べてるかも分からないんです。

 

それで、朝になって初めて家の正体が分かるんです。屋根に穴空いてるとかね。(笑)

 

 

そんな日々を過ごしていましたね。

 

 

でも、親切なのが彼らは日中に「俺の友達に会わせてやる」とか言ってくれて、

色々なところに連れていってくれるんです。

 

あと、デリーとかカルカッタとかに訪れたときには、大学の先輩たちが商社に入社して駐在員とか

やっていたこともあって、家に泊めてもらったりもしました。

 

そこでは、日本食が食べれたり、3週間ぶりにお風呂入れたりととにかく、別世界でしたね。

息継ぎとしてそんなこともしていました。

 

そんな「人間の原点の様なもの」を日々見る毎日を過ごして、日本に帰って来ると、

こんな大学で勉強していて一体何が意味あるんだろう。自分は今一体何しているんだ思うようになったんです。

 

そうすると、インドに行く前は一度も休まなかった授業にも出なくなり、行く前と帰ってきた後では、

まさに人格が変わっちゃったんです。

 

 

まさに、インドに行って人生を変えたタイプの人間なんです。

 

 

それに加えて、その頃大学闘争というものが当時始まり始めていて、なんの躊躇もなくそっちに乗っかっていきました。

 

なので、無銭旅行から帰ってきてからは一度も授業に出ませんでしたね。

誰かが社会を変えなきゃいけないと思って、どんどん大学闘争にのめり込んでいってしまいました。

 

 

 

挑戦というものがいかに大事かを感じたソニー時代

 

3Mtq7ffKf08NLjv7NfcutHTmqNWSmVr63Z99xV9TOSVujKXBHau7kFvPeHHyBNwD0kDXL2-LRsyLazjUW07y-CB8Lyosw7n7flBRs5xxS5x0xLnB2LO2ts_05fJWcvCJeDM-acgO

ソニー時代の写真

 

 

ーー卒業後はなにをされたんですか?

 

卒業後は、海外にまた行きたいという気持ちがあったので海外に行ける様な大阪の小さい

木材輸入商社の会社で社会人をはじめることにしました。

 

でも、会社に入っても真面目に仕事をしようという気はあまり無くて当時は、

バイトと仕事の境目も分からない様な若者でしたね。

 

仕事といえば、港に行って丸太の数数えたり丸太に会社の印を入れたりとあまり面白い仕事じゃなかったんです。

 

そして、入社から3ヶ月目で会社から東京支社に行けって言われて、東京に行くことになったんです。

 

それからは、結構海外に行ける機会が増えていきました。

 

3年間勤めた中で、1年間はアメリカにいたし、インド、ミャンマー、インドネシアとアジア各国へ

行って木材の買い付けをしてました。

 

海外には基本的に1人で行くから、1日1時間くらいお客さんと話しをして、丸太の山をちょっと見る

くらいしか仕事ないので、それが終わったらもうこっちの時間なので海外を満喫してました。

 

無銭旅行をしていた時とは違って、寝るところ食べるところに困らずいい生活でした。

 

そんな生活を送っている頃、彼女ができたんです。

 

その頃は、もう27歳になっていたので、そろそろ自分の将来っていうものを考え始めたのをきっかけに、

こんな仕事をしていていいんだろうかなと思い始め3年間勤めた会社を辞めたんです。

 

そして、転職先として「ジェネラルモーターズ」を選んだんです。

 

そこでも、最初は慣れないデスクワークに日々に取り組んでいたんですけど、アメリカ人のマネージャーが

かなりワガママな方で、気に食わない人はどんどんクビにされていってしまって、

僕が入社してから1年たった頃には周りの人ほとんど入れ替わってました。

 

自分自身は仕事はすごくやっていたから、評価されていたんだけど、こんなところで偉くなっても

仕方ないなと感じ始めるとだんだん会社が面白くなくなってきたんです。

 

これも相まって、やはり外資は自分に合わないなと、やっぱり日本の会社がいいなと感じたので

また、新聞で仕事を探すことに。

 

最初は木材やって、2番目は自動車やったから、次は電気やってやろうかなとか思って、

ソニーの試験を受けることにしたんです。

 

一次試験当日に会場へ行ってみると、若干名という採用枠に600人くらい来ていましたね。

 

これは、無理だなと思いその試験の帰りに兄と会って話したのを覚えてます。

 

兄にGMをやめて、転職しようと考えている旨と今日ソニーの試験受けてきたことを話すと、

「お前はバカか」とソニーみたいな会社がお前みたいなやつ採用するわけがないと言われました。

 

仕事変えたいんだったら俺が取引してる会社に頼んでやるからと言われて。

そうしてもらう様に兄に頼むんでしまうくらいソニーの試験はハードルが高かった。

 

 

でも、それから一週間経った時に一次試験合格の通知が来て、次の面接試験に進んだんです。

 

 

本当にこの時はびっくりしましたね。

 

でも実は、これには裏話があるんです。

 

僕ソニーの募集要項に、配属先が中近東希望ならアラビア語ができれば尚良しと書いてあったのをみて

応募するときに、エントリーシートに「アラビア語の素養有り」と書いたんです。

 

 

もちろんそんなもの全然ないんだけど(笑)

 

 

それを、一次が受かってから思い出して、書いたときは面接試験まで行くなんて思ってないから、

面接でアラビア語を聞かれたらどうしようとビクビクしてましたね。(笑)

なので、アラビア語の本とか買って日常会話くらいは喋れるようにしておいたんです。

 

でも、蓋を開けて見ると案の定、面接官にアラビア語ができる人なんかいなくて、そのかわりに、

あなたの家のテレビはどのブランドなの?と聞かれたんです。

 

そこで、僕はマツシタですって言ったら、なんでマツシタなの?と聞かれたんでキャビネットの

ローズウッドの木目が綺麗だからって言ったら

 

 

えらいウケちゃって。(笑)

 

 

素直に答えたのが良かったらしく二次試験にも通り、次に部長面接、副社長面接と進んでいって

最終的に採用されることになったんです。

 

そのときは、ほんと人生何があるかわからないなと感じましたね。

 

それで、ソニーに入社して1日目から海外営業本部の中近東課に配属されて、結局29歳の時から59歳まで務めました。

 

当時のソニーはアメリカとかヨーロッパなどの先進国ではブランドの評価は高かったんですけど、

中近東にいったらソニーを知っている人はほとんどいませんでした。

 

当初、マーケットシェアが2パーセントくらいだったものを3年でシェアが30パーセントくらい越して

ナンバーワンのシェアになったんです。

 

その頃感じていたのは、ウサギとカメのように上にいる人は必ず休んでる時があると、

だからこそ、入社したての僕には人一倍努力必要でしたね。

 

血の出るような努力をしてみて、下から上がる人の強みとか、人間にとって挑戦できるステージがあるという

ものがいかに大事かということを身をもって体験しました。

 

 

 

タイガーモブの原点は彼女自身にある

 

タイモブメンバーとの写真

 

ーー菊地さんの印象

 

若い人には、なかなか年寄り好きな人は少ないと思うんです。

だから、年寄りの話に食いついてくるって若者は珍しいと思ってました。

 

けど、彼女と最初お会いした時に、ものすごく僕の話に食いついてきて、

それは、他の方にも同じなのだけれどその勢いっていうのがものすごくて

 

だから、彼女自身がアマゾンの怪魚みたいなもので、やたらエサ投げたらすぐ食いついてくる様な

印象を受けましたね。魚にしてはかわいいなという感じだけどね。(笑)

 

彼女に限らずなぜか、僕がサポートしている会社・人には女性が多いんです。

 

やっぱり女性起業家の方が男性より食いつきがいいしスピード感もあるんです。

そういうのを見ると助けたくなりますね

 

それだけ、女性起業家はアドバンテージを持ってると彼女を見て思います。

 

 

 

 

タイモブのイベントに参加した時の写真

 

 

 

ーータイモブにどんな印象をお持ちですか?

 

タイモブは、基本的にインターンに行く学生からお金を頂くんです。

 

新入社員が海外勤務を嫌がるなど、どんどん若い人が内向きになっている様な風潮がある

今の日本でこのような仕組みでビジネスをやろうとすると

 

「そんなお金を払ってまで、海外へインターンに行く学生なんかいないよ」

と思われてしまうと思うんです。

 

 

そこで、いや違うんだ!そういう学生はいるんです!

 

 

と彼女が言ったことが素晴らしいと思っています。

 

彼女がそう考えるに至った背景としては、彼女自身を含め海外へと出ていってその度に、

インターンシップ仲間に出会い、この人たちは世間一般の大多数の学生とは違っていて、

志が高い人っていうのはいるんだ!というのを彼女が身をもって知っているということが大事なことですね。

 

ここがタイモブの原点みたいなことがあると感じます。

 

これからはそういう若者を集めて育て、その先もそういう志のある人たちの仲間を広げていくことによって

次のビジネスへのステップというのが出てくるということなんです。

 

 

 

仲間のために勝たなければいけない

 

ーー小寺さんの人生観について聞かせてください。

 

人間はみんな年齢とともに考え方が変わるものだけど、僕が人生において自分を駆り立てていたものが

何かなと考えてみるとそれは、 『絶対に勝つ』ということですね。

 

当時、仕事というのはある種のゲームだと思っていて遊びでもスポーツでも勝たなきゃ意味がない。

みんな勝つために一生懸命やるものだと考えていました。

 

勝負をしたらやっぱり勝ちたい。

 

そう思うことで、 “ 勝つために何をするべきなのか “ や、 ” 勝つためには何が必要なのか “ と考える様になるので

 

仕事のプロとして勝つ。ということは貫いて来ました。

 

あとは、僕自身にとって大事なものは今では、家族であったり会社であったりたくさんあるのだけれども、

昔からずっと大切にして来たものは「一緒に働く仲間」ですね。

 

全ての人間は、会社のためとか国のためとか曖昧なものに対して働く意欲を出せるかというとそうではなくて、

やっぱり、自分が見ることのできる範囲にあるものが大事なんだよね。

 

だから、いつも自分の仲間のために勝たなきゃいけない。と考えていました。

 

 

 

人が輝くためのお手伝いをしている未来

 

ーー今の自分からこれからの自分へ言葉を送るとしたらどんな言葉を送りますか?

 

人生を階段の様に、この次はこれ、この次はこれ、と考えられない部分があるのかなと思います。

きっと人生というのは、もっとシームレスで繋がっているものであると。

 

そうすると、次の段階で何をして自分が輝くかと考える必要はなくて、全ては今の延長線上でしかないんです。

 

だからこそ、自分が価値を出せるもの、自分ができることで、貢献でしていけることを考えるしかないかなと。

 

 

それは、人が輝くためのお手伝いをするということ。

 

 

自分が輝くことよりも、人が輝いていくお手伝いをできるかどうかが、

自分にとっていい人生だったと思える要素になると思っています。

 

 

ーーありがとうございました!!

 

 

〈小寺さんへのインタビューを終えてみて… 〉

今のように日本人が海外に行くという選択肢がまだ当たり前ではない時代に、

インドをはじめとした国々に無銭旅行をしに行ったと聞いてとても驚きました。

そして、その先々でのリアルなエピソードをたくさん話していただいて僕も無銭旅行に出かけたような

感覚になりました。全く知らない世界ばかりでとても楽しかったです。

 

また、大学卒業後は様々な職種の仕事に就き最終的にソニーへ勤め、まだドバイが砂漠だった頃にソニーの拠点

を立ち上げたエピソードでは、小寺さんの「仲間のために勝負に勝たなければけない」という仕事への

向き合い方をお聞きできました。

 

そんな小寺さんの生き方から学べることはたくさんあり、いくつか今の僕でも自分の生き方の反映できるもの

もありました。

 

この記事を読んでいただいている皆さんにも、小寺さんへのインタビューから心を突き動かされる言葉を見つけ

新たなアクションが生まれるきっかけになればいいなと思います。

 

 

以上でこの社内インタビュー企画【タイモブをにのぞく】は完結となります。

長い間この企画にお付き合いいただきありがとうございました!!

びしん@タイモブ

お気に入り登録数:2

関連するインターン情報

pagetop

PAGE UP